披露宴はお膳からテーブルに変わる時代。地方はお膳、都会はテーブル。テーブルでも和食が多かった。神戸では中華も。
67才 世田谷区
披露宴はお膳からテーブルに変わる時代。地方はお膳、都会はテーブル。テーブルでも和食が多かった。神戸では中華も。
67才 世田谷区
結婚式の写真は我が家(実家)にもたくさん残っていますが、いかにも当時の服装、髪型、みなさん共通のドレスコードがあったのですね。
61才 世田谷区三軒茶屋
「坊ちゃんがり」という髪型を思い出した。
50代 世田谷区烏山
東京オリンピック開会式が晴天だったこと。
63才 川崎市多摩区
縁側のある大きな家。今ほど内/外の境界線がなく、内と外がゆるやかに繋がっていた。当時、横浜にあった祖母の家を思い出した。
60代 横浜市
三輪車のサドル、両端にヒラヒラした飾りがついてて、あ、レトロで懐かしいなと思いました。
教えない 世田谷区
駒沢には今で言うキッチンカーでホットドッグ屋が出ていて、それを買って食べるのが楽しみだった。多摩川ではおでん屋。
61才 世田谷区上用賀
初参加だったと思うがボクシングで参加したチュニジア。初めてこの国名を知った。
68才 世田谷区上北沢
当時は、白黒テレビで見た記憶があります。翌年愛珠幼稚園に通っていたころ運動会で駒沢競技場で玉入れをやった記憶があります。
64才 世田谷区若林
80年代に関西出張の帰り、座席に座っているよりも、と、食堂車でカレーライスとビールで同僚と寛ぎました。
67才 世田谷区
私が初めて新幹線に乗ったのはかなり後、昭和45年に家族で大阪万博に行った時。会場で大雨になり、びしょぬれで情けなかったことしか思い出せない。
65才 横浜市
映像は国鉄時代ですね。上京してから、山手線にも馴染んだ頃、E電と呼んだ時のことを思い出しました。
50歳代 世田谷区
自動車ー水冷エンジンでオーバーヒートした時に薬缶の水を注ぎ足していた。オリンピックー毎日、小学校で競技のテレビ中継を見ていた。
69才 世田谷区
音が無く静かな映像だからかもしれないが、男性も女性も現代よりも品が良く恰好がついている印象を受けた。皆堂々とキラキラして生きている。
21才 多摩市
銀巴里で歌っているのは石井好子さんでしょうか・・・。茶沢通りを下北に向かって歩くと、銀巴里という名前の古い床屋さんがあります。
--才 ---
いろいろ。子どもは大人と同じだけの大きさと多様さで瞬間瞬間を受け止めている。匂いや手触りまでよみがえる。
65才 新宿区下落合
この方は、どういう経緯でこのような大役(?)を務めることになったのか気になります。カメラは一緒に参加した同級生も意識して追っているようです。
64才 横浜市
私の父も8ミリで時々撮影してくれたことを思い出した。家族旅行とか運動会とかだったと思う。フィルムは今何処?
49才 世田谷区
栄養失調で引き上げ船で亡くなるなんて本当に悲しいエピソードですね。知らないことを知る機会に感謝いたします。
--才 ---
鎌倉の八幡宮でそのような大祭があったとは知りませんでした。和装することが50年前には珍しくなかったのに今では全く見られない、機会が少ないので残念です。
--才 ---
少年が被ってるような”えぼし?”を自分も七五三で身に着けた記憶あり。なれない草履で歩くと余計に”えぼし”がぐらついて、首に回った紐も心地悪く違和感あったような・・・。
54才 世田谷区(千葉県市川市中山育ち)
このフィルムを撮影できるという事は、当時からすると大変お金持ちでないとできないと思い驚く。
37才 世田谷区三宿
父親の実家で神社、踊る人におんぶされて儀式?に参加した。赤ん坊の頃。その写真を思い出した。
39才 世田谷区
提供者の方はなぜ参加したのか? 立候補などのシステム・・・? また、ほかにビデオカメラを持っている人がほとんど見当たらないことが気になりました。
26才 世田谷区
提供者です。観覧のみなさま、見ていただきありがとうございました。ここに出ているいくつかの質問にお答えします。
--才 ---
申し訳ございません。「世田谷クロニクル」公開を視聴していません。
80才 世田谷区三宿
夏休みに「田舎に帰る」といって地方の実家で過ごす子らを羨ましかった。ずっと自分の家にいたので。
68才 世田谷区若林
私も4~6才の頃、大原で過ごした。花火大会の渋滞で大泣きし、もう帰りたいと言って家族を困らせた。花火が始まって、車の後ろ窓から花火を眺めていた。
31才 北区
自然と共存しながら生きる素晴らしい暮らしをしてたのだと感じました。
30才 世田谷区三宿
親は島育ちなので、若い頃の写真に海岸で牛の親子(野牛です)が映りこんでいたのを思い出しました。母牛が後ろを遠くついてくる子牛を振り返り、モーと呼んでは歩いていったそうです。
49才 川崎市
自分の知らない当時の姿が不思議で、この時に一生戻ることは出来ないが、映像を通してこの時に逢えるのが面白いなと思いました。
20才 日野市
自分の父母が10代だった頃の映像となるため、父母から聞いた当時の話はこのような風景の中にあったのだなと思い浮かべながら拝見しました。
41才 世田谷区
大原は漁港のイメージが強かったので泳げるなんて意外でした。
68才 大田区蒲田
夏休みに母方の田舎、和歌山県の新宮へ毎年のように行っていました。新幹線もなく紀勢線も南回りしかなく、移動は途中1泊で楽しかったけれど親の負担は大変だったのでは。
71才 大田区
8年くらい前に、住み込みのアルバイトで夏の間伊豆大島に行っていた友人を訪ねて大島に行き、2人で海を泳いだことがあったなと思い出した。
35才 目黒区
自分の出身が横浜の海沿いで、漁港もあるような場所だったので、海岸の風景を見ていると時代も場所も知らないところなのに何となく懐かしくなります。
32才 目黒区
しょっちゅう海に行っていたくせに泳ぐのが嫌いだった。
57才 世田谷区太子堂
映像に障子紙を破いているシーンがありました。あの中央だけガラスが入っている障子戸、近頃見なくなりましたが、私の実家も母の実家もあのタイプでした。
今年の暮れに63才になります 世田谷区宮坂
一緒に鑑賞した方の当時のエピソードを聞いて、にわとりの鳴き声、にわとりを追っかける時の掛け声が思い出された。
51才 世田谷区若林
オロナミンCなどのホーローの看板、ビックリマンシールのニセモノのガチャガチャなど独特の雰囲気の思い出。「光井さん」という食料品店で祖母にお菓子をいつも買ってもらっていた。
42才 世田谷区
スーツ姿で子どもと遊ぶ様子が印象的。庭もとにかく広い。すがすがしいお金持ち。白黒無音だけど、寒さや音、光が伝わってくる。ふしぎ。
25才 杉並区
モダンなデザインの一軒家、広い芝生のお庭、私が物心ついた頃(昭和40年位)にはこのようなお宅が都内にも多くありました。豊かな生活の記録ですね。
62才 世田谷区三軒茶屋
女性は和服が多かった。若戸大橋開通。記念の博覧会があり、ジョン・グレンの飛行の様子の記録映画が上映された。
68才 世田谷区
祖母、姉、妹、嫁様の三世代かな。正月用和裁着飾って楽しそう。
--才 ---
土の路、各家庭のコンクリートゴミ箱、自転車の往来のない安全道、三輪自転車、乳母車の手押し風景、なつかしいね~!
--才 ---
台所のうら口を出ると井戸があった。背のひくい井戸。夏にはすいかをひやした。
66才 豪徳寺2丁目在住
当時のレクリエーションは歩くのが基本。映像にあるような公園には、紙芝居屋が来ていた。近くの市場で大火事があった。市合併のころ博覧会があった。グレン飛行士の映画。
68才 上北沢
今の恵比寿と街並みが違いすぎて本当に恵比寿なのか?今もある目印になるような建物などは映っていますか?
40代 世田谷区
世田谷は田畑が多い所だったのだと改めて思った。広大な敷地がすごいです・・・。お家が大きい!! また、当時に飛行機に乗ることができるなんて大変裕福でよいなと思った。
37才 世田谷区
赤堤にあった祖父母の家には似たような縁側があって、窓をあけ放って隣家の人と憩えるような、庭と室内をつなぐ架け橋のようなスゴク良い場所でした。
55才 世田谷区
普通はよくてブルトレで移動とか、街路に開渠のドブは珍しくなかったなぁ。頭が丸いコンクリートの棚はよくあったなぁとか思い出していました。
66才 世田谷区
東京浅草の生まれですが、戦争(1941~1945)のため母の郷里、埼玉の比企郡(JR八高線の村)へ家族全員で「疎開」時代に入りました。小学校もこの村の学校へ東京から近かったため、疎開族が多くいましたが3~4年すると殆どの東京出の友達は東京へ引き上げてしまいました。
81才 世田谷区三宿
長女の高校合格の発表があり、ほっとして喜んでいた矢先、その日の夜、会社から帰宅した夫から突然、大阪転勤になったと告げられた。夫はすぐ大阪へ。
88才 世田谷区代田
近くに住んでいた1才違いのいとこがおじ家族の大阪転勤でいなくなり、実家に遊びに来る夏休みが待ち遠しかったです。
66才 世田谷区
もう60年も前の日々、若さだけが自分の全てだったかも・・・ 前年位に60年安保があり、政治に目覚めてもいた。
79才 上町
同級生が茅葺の家に(小学生の時、世田谷で)住んでいたこと、思い出しました。キャベツ畑もあったなぁ。
66才 大田区西糀谷
玩具メーカーに勤めていた父が、社長のお供でアメリカに出張し、帰国の日に大勢の社員の人達と羽田空港に迎えに行ったのはちょうどこの頃だったと思う。服は母の手縫いだった。
65才 横浜市
昔、世田谷にも旅館ありましたね。
68才 大田区
当時の人が憧れた生活だろうな。
72才 世田谷
前の職場の利用者さんが軍需工場に動員された。ドラム缶か何かを紙で貼ったりして、こりゃ負けると思った、と言っていたのを思い出した。
41才 下高井戸
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