初めて知った「かっぱ天国」。スイムキャップが可愛い。犬と猿が仲睦まじくじゃれあっている。少女が犬の首輪をそのまま持ち上げていたね。

--才 ---
初めて知った「かっぱ天国」。スイムキャップが可愛い。犬と猿が仲睦まじくじゃれあっている。少女が犬の首輪をそのまま持ち上げていたね。
--才 ---
羽根木公園のプールが懐かしかった。同じ年だと思いました。いい映像ですね。
--才 ---
節分の時姉弟5人で豆まきをしました。秋に取れました。大豆母がかまどいって自分の年の数だけひろって楽しみました。
--才 世田谷区
祖母、姉、妹、嫁様の三世代かな。正月用和裁着飾って楽しそう。
--才 ---
当時大抵の男子は半ズボン、晴れの日にはタイツを履かされて、あれはトイレで困った。あと、砧公園から見えるゴミ焼却場の煙突は赤白模様でしたね。
--才 世田谷区砧
男性がメインで作業しているのだ。つまみ喰いしているのが見られて、うふふという感の男性がいいなぁ。
--才 ---
お揃い姉妹の別珍半コート着用、羽根つき、乳母車、三輪車、自転車、大きい独楽、長い巻ひも、下駄ばき姿、今では無くなった子供の頃の正月遊び
--才 ---
母が元気の頃はお餅、かき餅にして送ってくれました。きねでつく餅は格別です。懐かしくペンを取りました。
--才 桜
提供者です。観覧のみなさま、見ていただきありがとうございました。ここに出ているいくつかの質問にお答えします。
--才 ---
十代、三宿の新星中学校に玉電を超えて・・あのころ・・何故かツリボリ屋があった。ミニチュア・カーレシング場があって若い世代の子供たちが遊んでいました。
--才 ---
銀巴里で歌っているのは石井好子さんでしょうか・・・。茶沢通りを下北に向かって歩くと、銀巴里という名前の古い床屋さんがあります。
--才 ---
どこ?
--才 ---
すごい!
--才 ---
三輪車のサドル、両端にヒラヒラした飾りがついてて、あ、レトロで懐かしいなと思いました。
教えない 世田谷区
鎌倉の八幡宮でそのような大祭があったとは知りませんでした。和装することが50年前には珍しくなかったのに今では全く見られない、機会が少ないので残念です。
--才 ---
栄養失調で引き上げ船で亡くなるなんて本当に悲しいエピソードですね。知らないことを知る機会に感謝いたします。
--才 ---
「和食」は日常生活の継承として子どもたち(次の世代)にも伝えられるようにしているんだと思いました。
--才 ---
長女の高校合格の発表があり、ほっとして喜んでいた矢先、その日の夜、会社から帰宅した夫から突然、大阪転勤になったと告げられた。夫はすぐ大阪へ。
88才 世田谷区代田
下の子供が小学校入学の頃、大雪が降った。子どもたちは雪の羽根木公園へ出かけ急なスロープで腰をおろし何度もくり返し滑って大喜びであった。
87才 世田谷区
小さい孫を連れて上の動物園へ行ったことを思い出した。寒くて人もまばら、閉門ぎりぎりまでいて、出口が分からなくなり、心細かったのを思い出した。
87才 世田谷区
長女が親離れしない小さい頃、子ども列車にかろうじて一人で乗り不安げに手を振って何周かしたのを思い出す。木立に囲まれた一角にバラ園があり、綺麗だった様に思う。
86才 世田谷区代田
写真に写っている体操の風景を見て戦中の体操はきびきびとして元気よく勇ましかったと思い出した。終戦後に出来た現在のラジオ体操は音楽もなだらかでリズミカルだと思う。
--才 ---
大雪の日高下駄で学校へ行った。下駄のはの間に雪がはさまって更に高くなり転びそうであえぎあえぎ登校した思い出がある。
86才 世田谷区代田
子育ての頃、子供二人夏休みになりますと学校の校庭に行っていました。最後に参加証を頂き50年前の思い出になります。
--才 ---
隅田川、川開き、隣の人が都立蔵前工業高校の生徒で、川開きの時は校庭を開いてくれて、家族中で見物に行きました。目の前の花火を見て感激して帰りました。
82才 ---
高校3年生で安保で揺れていた時代
82才 ---
雪と世田谷線。都会の雪(降雪5cm以上)は、後々めんどくさくなるのが解っているのにワクワク感がある(すっかり子供モード)。
82才 世田谷区三宿
荒川線と世田谷線は専用軌道があるためかろうじて残ったものの都会のすみっこに追い込まれた気持ちになった。
82才 世田谷区
東京浅草の生まれですが、戦争(1941~1945)のため母の郷里、埼玉の比企郡(JR八高線の村)へ家族全員で「疎開」時代に入りました。小学校もこの村の学校へ東京から近かったため、疎開族が多くいましたが3~4年すると殆どの東京出の友達は東京へ引き上げてしまいました。
81才 世田谷区三宿
申し訳ございません。「世田谷クロニクル」公開を視聴していません。
80才 世田谷区三宿
当時は長崎在住で長崎市には同様に路面電車が在り、懐かしく比較して見た。
80才 世田谷区粕谷
もう60年も前の日々、若さだけが自分の全てだったかも・・・ 前年位に60年安保があり、政治に目覚めてもいた。
79才 上町
もの心がついた頃の姉の国民学校時代を思い出します。姉は8才年上でした。
78才 世田谷区 5才~12才迄広島にいました。
この少女のお兄さんくらいの年頃だったかなぁ。高度経済成長真っ只中で各家庭の所得が上がった。
--才 ---
明るく伸び伸びとした情景が、女の子なのに元気に自転車に乗りキチンとした服装等に、戦後生れで苦労して育ててくれた両親に感謝の思いが再び沸いて来ました。
渋谷区に住み74才です。三軒茶屋で家政婦のバイトを16年しています。 渋谷区
二度目の鑑賞です。前回と違った年代の映像が見られてうれしい。
--才 ---
当時の人が憧れた生活だろうな。
72才 世田谷
夏休みに母方の田舎、和歌山県の新宮へ毎年のように行っていました。新幹線もなく紀勢線も南回りしかなく、移動は途中1泊で楽しかったけれど親の負担は大変だったのでは。
71才 大田区
何がと言われるとはっきり言えませんが、今より毎日楽しく幸せに生きていました。何にとは言えませんが、希望が有った様に思えます。
70才 大田区蒲田駅付近
ヴァルター・ベンヤミンはパリのパサージュ(アーケード)について「パサージュ論」という本を書きましたが、日本では学問的に研究の対象とならず論外になってしまったのは残念です。
70才 大田区
自動車ー水冷エンジンでオーバーヒートした時に薬缶の水を注ぎ足していた。オリンピックー毎日、小学校で競技のテレビ中継を見ていた。
69才 世田谷区
あの玉電の運転手さん達はその後どうなったのでしょうか? そして代替のバスの運転手さんたちはどうなったのでしょうか? そして電車のユーレイは???
69才 大田区西糀谷
200形ペコちゃん。車掌が2人、ドア扱い、車体が丸っこいのでステップがせり出す。一番嬉しいのが運転士の横までロングシート、展望席だった。
1956年生 世田谷区池尻
井の頭線の渋谷駅の改札を出て、山手線の改札口に向かっていると、右側に玉電の渋谷駅があり、電車が進入して来るところでした。
69才 世田谷区
私にとっては本当に懐かしくて、いつまでも話をしていたいのですが、生まれていなかった方は相当アウェイ感あるんだろうなぁ。
69才 大田区
住宅は畳部屋が基本。ベッドで寝るのは少数派。8mmカラーで撮影されているが、モノクロフィルムも多用されていた時代。
69才 世田谷区
初めて東海道新幹線で逗子に行った。
68才 世田谷区上北沢
海に沿って横に長く延びた公園で、海と反対側の道路に沿って公園内にコンクリート製の鉄道高架橋が既に建設されていて、貨物用と聞いたので子供としての興味が減殺されたように記憶している。
68才 世田谷区
68才 世田谷区上北沢
夏休みに「田舎に帰る」といって地方の実家で過ごす子らを羨ましかった。ずっと自分の家にいたので。
68才 世田谷区若林
女性は和服が多かった。若戸大橋開通。記念の博覧会があり、ジョン・グレンの飛行の様子の記録映画が上映された。
68才 世田谷区
昔、世田谷にも旅館ありましたね。
68才 大田区
当時のレクリエーションは歩くのが基本。映像にあるような公園には、紙芝居屋が来ていた。近くの市場で大火事があった。市合併のころ博覧会があった。グレン飛行士の映画。
68才 上北沢
キップを社内で車掌さんから買った。パチンとハサミを入れてもらったことが子供心にうれしかった。
--才 ---
大原は漁港のイメージが強かったので泳げるなんて意外でした。
68才 大田区蒲田
見世物小屋に入った記憶が駒留八幡でした。意を決してお金払って入ったのに、インチキぽかったのも懐かしいです。
68才 世田谷区若林
初参加だったと思うがボクシングで参加したチュニジア。初めてこの国名を知った。
68才 世田谷区上北沢
買い物カゴを下げて日用品あれこれを買う母や祖母を思い出しました。物を売りに来る人々も多かったように思います。(ミゼットなつかしー)
68才 大田区蒲田本町に住んでます。古い商店街の多い所です(あちこちの商店街行ってみたい・・・)
なつかしい世田谷辺の路地風景でした。風俗としては絵本の「3月ひなの月」っぽいですね。お寺は移動しないから、場所特定できて面白かったです。
67才 大田区蒲田本町
披露宴はお膳からテーブルに変わる時代。地方はお膳、都会はテーブル。テーブルでも和食が多かった。神戸では中華も。
67才 世田谷区
© 2019-2025 Lifestyle Design Center, remo. Privacy Policy